「正常さ」という病い

『「正常さ」という病い』
アルノ・グリューン著、馬場謙一+正路妙子 訳 (青土社絶版)

安冨歩氏の『複雑さを生きる』という複雑系を用いて広範な事柄を分析しながらも、具体的な実効策までも示してしまっている恐るべき著作の中で、アルノ・グリューンについて詳しく紹介されており、それ以来気になっていた。よく思い出してみれば、去年の夏、誘われて後楽園(だったか、その近郊)にプロレス観覧に行ったとき、入場時間までの空き時間をつぶすためにムーミン ベーカリー & カフェでフィンランドビール・ラピンクルタを飲みながら、畏友が最近読んでいる本として紹介してくれたのがこの著作であった。絶版だったが、池袋ジュンク堂には一冊のみ置いてあったので、即座に買った(古本価格では呆れる値段がついているところもある)。
僕はフロイト派との相性が悪い。精神分析入門だとか夢判断だとか読んでも首肯しかねる部分があり、”フロイト派”と分類されているだけで敬遠してしまう傾向がある。アルノ・グリューンは、一応フロイト派に属するようなので、読む前から身構えてしまった。新書版で手軽だったため、この著作の前に読んだ『人はなぜ憎しみを抱くのか』では、何かと親との関係に全て帰着させてしまう部分があり、その展開に疑問を覚えたのは確かである。インタビュー形式だったので、分かり易い分、論拠に関しては間引かれていたため仕方ない部分もあると思う。それは置くとして、本来の自分を裏切ることで他人への憎しみを感じ、「溌剌とした生」を生きることが不可能になるという説には感入るものがあった。この本でも、親との関係性を基礎におき、特に自分の中にある二つの母親像である『良い母親』と『悪い母親』の愛憎により、内面と繋がれなくなることを説いている。ヒットラーレーガンのような有名人や、臨床症例を分析していくのは、充分説得力を持っている。自己憎悪と破壊性を内包してしまう大勢順応者や、それのカウンターとして自分を位置づけることで逃れようとするが分裂してしまう反逆者の分析、そしてイプセンの『ペール・ギュント』の見事な解体には、謎解きのような明晰さがあった。当然のことながら、読みながら僕自身のことを考えてしまう。僕は自分が大勢順応者に近いことを自覚している。親との確執は少なくとも自覚しているレベルではないので、原因究明には骨がおれることであろう。薄っぺらい自分探しではなく、内面との格闘が必要であろうし、なによりも「見せかけ」を捨てることを、今後常に考えていかなくてはならないと思う。
この本を読みながら、頭をよぎっていたのは昔読んだ、須原一秀『高学歴男性におくる弱腰矯正読本―男の解放と変性意識』である。浅羽通名の『野望としての教養』だったか、『教養ノート』だったか(なんだか書いていて”恥ずかしー”題名がつづいているな、浅羽氏のは確実に名著なんだけどさ)で紹介されていた「超越錯覚」と「変性意識」の収集者として興味を持ち、学部生か修士のときに読んだ本である。このなかでは、自己保身に汲々とするのではなく、自己破壊的な衝動を持つことにより自分の活動を上げる方策が書かれていた。著作が手元にないのでうろ覚えだが、その方法は「右翼」のように、あるものに自分を仮託してしまうことであった。実際の「右翼」とは違うのでウヨク的と表現されていたと思う。変性意識をもつことで自己破壊の欲求を進め、自分を鼓舞する生き方の奨励。いやはやアルノ・グリューンの勧める生き方と真逆だな、と。