村上文学WS

3月下旬に国際ワークショップ 「世界は村上春樹をどう読むか?」があったわけだが、ワークショップ自体にはいけなかったので、その後雑誌などに発表された関係文章などのメモ書き。

  • 新潮 5月号 (2006) リチャード・パワーズ『ハルキ・ムラカミ−広域分散−自己鏡像化−地下世界−ニューロサイエンス流−魂シェアリング・ピクチャーショー』

リチャード・パワーズによる村上春樹論。パワーズが来日したのが、この国際WS に興味を持ったきっかけであって、もともと僕は、村上春樹の作品をある程度は読んでいるが、熱狂的な受け取り方をしているほどのファンではない。逆にパワーズは、翻訳がいつ出るのか楽しみにしているぐらいの愛読者である。パワーズ村上春樹論は、ミラー・ニューロンの発見の逸話から始まる。パルマの研究所におけるマカークザルの前運動皮質の外の運動とシンボル空間に存在する運動の概念が、同じニューロン機構によって制御されているという研究成果である。そして、ミラー・ニューロンの革命的研究により他者に対する共感の神経医学的基礎が解明され、また行為を実行することと想像することは、同じニューロン回路の二つの違った表れ方に過ぎないことを述べる。そして科学的見地を、村上春樹の無意識の風景、共同体の宿す夢、そして村上文学に時々現れる別個の時空間をパラレルに走らせる物語へとつなげてみせる。それは、一昔前ならユング心理学で分析されたものであるだろう*1、しかしながら、それをもっと豊潤に記述する方法として科学を用いることを選択する。分散しモジュールに分かれた脳のネットワークとして存在する意識、それぞれが複合し競合する「鏡の館」としての脳、外的現実とその影としての心の中のマップの境界の危うさ、それを村上春樹の小説に立ち現れる迷宮的な奇怪なイメージと重ねてみせる(アマゾンのコンコーダンスで調べると、村上春樹の小説の英訳のなかで頻出する単語は「影」(shadow)だそうだ)。この部分は、例えば村上春樹が意識している作家であるスティーブン・キングの影響と論ぜられたりされたが*2脳科学の知見を用いて論じてみせるのは、パワーズの面目躍如であろう*3。このパースペクティブにより、村上文学の世界的普遍性を説明する一つの視点を与える。分散したモジュール化した脳の奇怪さに村上春樹が深く同調している点が、人間を人間にしている普遍的条件とも同調していることになると。その視点を与えた後、村上春樹の良く論じられるグローバルな消費文化の体現者としての説明を続ける。ナショナリティを忌避し、取替え可能なってしまった社会の恐怖を語る作者として評価し、その分裂をミラーリングするニューロンのマップとして語ってせしめる。評論でありながらも、ここにもパワーズの小説に見られる複合したかけ離れた物語を、その見事な文章でまとめてみせる真骨頂がある。

表題通りに柴田元幸によるリチャード・パワーズのインタビュー。こちらは英語雑誌ということとなので、英語原文とその対訳両方が載せられている。簡単な村上春樹の小説との出会い(2作目を書いていたころに出会ったとの事)と自分の小説への影響について語られる。一作目のデビュー作でも村上春樹との親和性が高いことには、村上的体験「自分の世界に並んで別の世界があった」だと述べている。あとは、簡単に上論文と同じく脳科学的な視点を少し語っている。後半部分は、柴田元幸がインタビューアーでもあるため、翻訳についての話になっており、翻訳はオリジナルとは違う新しい作品だとか、文化的に受け取られる部分が違うとか。リチャード・パワーズ囚人のジレンマ』は前山佳朱彦・柴田元幸共訳にて、みすず書房より今秋出版予定の模様*4

  • NHK BS2「BSフォーラム 春樹をめぐる冒険―世界は村上文学をどう読むか」

各国翻訳家のパネルディスカッションの模様。TV番組ということで、多分時間の制約もあり、妙録であると思う。各国の村上春樹の翻訳者が、受容について述べていて、基本的には如何に人気か、ということを述べている似すぎない。僕が興味をそそられたのは、ロシアの翻訳者のコヴァーレンさんが本的な「心」をどう訳すかという時に、"mind" でも"heart"でもないので困ってしまい、それ自体を訳すのをやめて、コンテクストで表現するようにした話ぐらいかな。

  • 文学界 6月号 (2006) 『世界は村上春樹をどう読むか?』

世界各国の翻訳者を集めて行われたワークショップの全文。
前半は『翻訳の現場から見る村上ワールドの魅力』という題で、『スパナ』と『夜のくもざる』を各国の翻訳者に訳してもらい、それを叩き台にして翻訳上苦労した点や工夫した点を話す形式。どこも擬音語やら時世やら固有名詞(日産の車は場所によって名前が違う)をどうするか、というのが問題点として挙げられていた。面白い点はあるが、総じてテクニカルな部分やら文化的背景の違い大きく、村上春樹だからという点はなかなかなかったような気がする(これだけ訳されている現代作家は当然いないので、その点では重要かもしれないが)。ロシアのコヴァレーンさんが言葉あそびを使ってユーモアな分を出すように意訳したのがさすがかなと思う(このコヴァレーンさん、NHK のBSフォーラムもそうだったが、かなり面白い)。
後半は『グローバリゼーションのなかの村上文学と日本表象』という題で、四方田犬彦氏を案内人として、社会学的に外側から論じていく。問題提起として、村上春樹の「日本」というステレオタイプを前面にださない「文化的無臭性」が提出される。それに対して、各国の状況を話して行くという形式だが、韓国・中国では、グローバリゼーションと共に歴史性を持っていることが述べられるが、ロシアやポーランドではそれほど日本的な部分を探そうとしても出てこない、オリエンタリズムが通用しないことが主張される。ドイツの話が良くて、日本的な小説として消費されているわけでないことが主張されるが、

一方で軽薄さと果たされることのない文学的約束、コマーシャルな好みが批判され、他方で推敲の行き届いた深みのある超現実的なストーリー、卓越した文体、ポストモダン社会への暗黙の批判が賞賛されています

と、このWS通して、村上春樹ファン世界の集いな感じであり、「如何に村上春樹が凄いか」であったところに、海外でも日本と同じような批判が出ているのが初めて述べられる。そして、フランスでは日本の作家として受け入れられていて、ブラジルでは日系人への文学としての発信が元であり、カナダでは世代間での違いがけ顕著であるという形で、各国での受け取り方が際出されていく。このような議論の良くあるパターンとして、日本的なのかコスモポリタンかという問題の立て方を無化していくのだが、四方田氏の

実を言うと、村上は現在日本では多くの文学者に無視されています。彼を論じるのは社会学者であった文芸批評家ではありません。

という身も蓋もない意見により、少し矛先が変わる。村上春樹が意識的/無意思的に自身のブームを考えていることと、ロシアでは文学としではなく、ファッションに変わっていることも指摘される。僕の周囲でも村上春樹というのは、「好き」とはっきりいう人と「嫌い」というひとと、「本当は好きなんだけど・・・」という人に分かれていて、最後のグループに属する人は、一つにはファッションとしての消費、そして流布しているイメージに対する抵抗をもっている事が少なかれずあるのではないかと思う。「村上春樹が好きだ」という主張が、その人をある種規定しまうことを忌避するために。このWSを通して分析の仕方には各国の特徴が出ていそうで、結局同じような部分が評価も反発もされているような印象を持った。逆説的に言うなら、それぐらいの普遍性をもっているということであろうし、このようなWSが成り立つ現代作家が日本では他にはいない点は強調してもし過ぎることはないと思う。

*1:そういや『村上春樹河合隼雄に会いにいく』なんて本もあったな…

*2:村上春樹に一番影響を与えているのはH.P.ラヴクラフトだと主張していた人もいたなぁ…。って大塚英志氏だけど。

*3:リチャード・パワーズは大学では物理学を専攻しており、科学的知見を文学作品の中でSFの方法とは別箇な仕方で応用するのが魅力の一つだと思っている。「僕はこの町であれほど大好きだった物理学を裏切り、文学と寝た」(ちょっとうろ覚え)というような台詞が『ガラティア2.2』の冒頭で語られるのが、非常に印象に残っている。

*4:若島正翻訳の『黄金蟲変奏曲』はいつに出るんでしょうね?

陽気なギャングの日常と襲撃

『陽気なギャングの日常と襲撃』
伊坂幸太郎 著 (祥伝社 NON NOBEL)

最近、ノリにノッテいる伊坂幸太郎の新刊(といっても出たのちょい前だけど)。前作『陽気なギャングが地球を回す』は綺麗に終っており、続編が出るとは思っていなかったので、嬉しい誤算であった。一章は各人を探偵役にした「日常の謎」系列の話で、元々一話完結の短編だったこともありそれぞれが独立な物語としてそつなくまとまっている。でも、伊坂幸太郎の小説に慣れていると、最終的には全て繋がって来るのだろうと当然期待され、今回もそれを裏切らず二章以降で絡み合いさりげなく出した逸話を意外なところで活用してくる。クライマックスの騙しはあまりに杜撰で荒唐無稽だし、一番描写が厳しい部分は詳細を具にしないという欠点はあるが、その全体の構成の巧さ、そして何より会話の妙とテンポの良さがそれを補って余りあり、最後まで一気に読ませてくれる。
ドラえもんの秘密道具扱いの田中は作者も気になっているらしく

「田中に頼んでもいいんだが、田中の機嫌次第では、時間がかかるかもしれない。それにいつも田中の情報や道具に頼っていると、またか、と思われるかもしれない」と成瀬が眉を上げる。
「誰に、思われるんだ!」響野は思わず、声を高くしてしまう。
「俺たちの作戦は、全部田中任せで、田中がいれば何でもできるんじゃないか、と見透かされるかもしれない」
「だから、誰にだ!」

というメタフィクショナル(?)な突込みがあるのが実は一番笑ったところ。

ラストシーンは前回のレベルを期待するのは無理かもしれないが、ちょっと残念だったかな。

「正常さ」という病い

『「正常さ」という病い』
アルノ・グリューン著、馬場謙一+正路妙子 訳 (青土社絶版)

安冨歩氏の『複雑さを生きる』という複雑系を用いて広範な事柄を分析しながらも、具体的な実効策までも示してしまっている恐るべき著作の中で、アルノ・グリューンについて詳しく紹介されており、それ以来気になっていた。よく思い出してみれば、去年の夏、誘われて後楽園(だったか、その近郊)にプロレス観覧に行ったとき、入場時間までの空き時間をつぶすためにムーミン ベーカリー & カフェでフィンランドビール・ラピンクルタを飲みながら、畏友が最近読んでいる本として紹介してくれたのがこの著作であった。絶版だったが、池袋ジュンク堂には一冊のみ置いてあったので、即座に買った(古本価格では呆れる値段がついているところもある)。
僕はフロイト派との相性が悪い。精神分析入門だとか夢判断だとか読んでも首肯しかねる部分があり、”フロイト派”と分類されているだけで敬遠してしまう傾向がある。アルノ・グリューンは、一応フロイト派に属するようなので、読む前から身構えてしまった。新書版で手軽だったため、この著作の前に読んだ『人はなぜ憎しみを抱くのか』では、何かと親との関係に全て帰着させてしまう部分があり、その展開に疑問を覚えたのは確かである。インタビュー形式だったので、分かり易い分、論拠に関しては間引かれていたため仕方ない部分もあると思う。それは置くとして、本来の自分を裏切ることで他人への憎しみを感じ、「溌剌とした生」を生きることが不可能になるという説には感入るものがあった。この本でも、親との関係性を基礎におき、特に自分の中にある二つの母親像である『良い母親』と『悪い母親』の愛憎により、内面と繋がれなくなることを説いている。ヒットラーレーガンのような有名人や、臨床症例を分析していくのは、充分説得力を持っている。自己憎悪と破壊性を内包してしまう大勢順応者や、それのカウンターとして自分を位置づけることで逃れようとするが分裂してしまう反逆者の分析、そしてイプセンの『ペール・ギュント』の見事な解体には、謎解きのような明晰さがあった。当然のことながら、読みながら僕自身のことを考えてしまう。僕は自分が大勢順応者に近いことを自覚している。親との確執は少なくとも自覚しているレベルではないので、原因究明には骨がおれることであろう。薄っぺらい自分探しではなく、内面との格闘が必要であろうし、なによりも「見せかけ」を捨てることを、今後常に考えていかなくてはならないと思う。
この本を読みながら、頭をよぎっていたのは昔読んだ、須原一秀『高学歴男性におくる弱腰矯正読本―男の解放と変性意識』である。浅羽通名の『野望としての教養』だったか、『教養ノート』だったか(なんだか書いていて”恥ずかしー”題名がつづいているな、浅羽氏のは確実に名著なんだけどさ)で紹介されていた「超越錯覚」と「変性意識」の収集者として興味を持ち、学部生か修士のときに読んだ本である。このなかでは、自己保身に汲々とするのではなく、自己破壊的な衝動を持つことにより自分の活動を上げる方策が書かれていた。著作が手元にないのでうろ覚えだが、その方法は「右翼」のように、あるものに自分を仮託してしまうことであった。実際の「右翼」とは違うのでウヨク的と表現されていたと思う。変性意識をもつことで自己破壊の欲求を進め、自分を鼓舞する生き方の奨励。いやはやアルノ・グリューンの勧める生き方と真逆だな、と。

立喰師列伝

押井守立喰師列伝


劇場で観て置かねばならないということで、観に行った。渋谷シネクィント。小説『立喰師列伝』が出たときに、表紙の写真に業界著名人を使っていることに随分笑ったものだが、まさかそれをそのまま役者として映画を撮るとは思っていなかった。ほとんどが素人なので、演技など出来るわけはない。従ってミニパトと同じ紙絵パラパラ漫画みたいな手法で映像を構成し、声はほとんど山寺宏一のアテレコとナレーションで済ますという荒業(?)である。『立喰師かく語りし』(映画を観る前に読了)では、この手法だけで映画史に残ると述べられていたが、まぁ、そーなんでしょうなー。全てをナレーションで語って済ますというのが万人に受けいれられる訳でもなく、Web に転がる感想をみると『ラジオドラマと何が違うんだ』という手厳しい意見も散乱していた。僕自身は、『イノセンス』があまりに趣味を前面に押し出していたのと、押井守の実写映画が『アヴァロン』を除いて実験映画の要素が強いので、ある程度退屈でも仕方ないと覚悟していったら、意外と楽しく観れた。確かに、小説をまるまる読み上げているだけのところもあって映画媒体としての意義を問いたくなるが、散りばめられたマニアックな小ネタにくすぐられてしまうのは体質として仕方ない。趣味で作られた映画なので、それに浸かれる人間だけ楽しめばよいのだはないだろうか。



映画の感想はどうでもよいとして、シネクィントは平日初回は1000円で観れる為、院生時代はそれを利用していた。なので、今回のように休日に見に行ったのは、随分と久しく、整理番号が発行されるかも覚えていなかったので、かなり早めにチケットを買いに行ったら、
店員:「整理番号制ではないので、直前に列を作る程度の時間に来て、混雑具合を確認してください。立ち見になっても払い戻しは出来ませんので、その時にチケットの購入を決められることをお勧めします」
とチケットを売ってくれず。
KDD:「整列を行うのはどれぐらい前でしょうか?参考まででよいので教えてください」
店員「毎回の混雑具合によるのでわかりません」

文句があったときの責任逃れのために言っているんだろうけど、親切を装っているのがちょっと不快ですね。

FATHER and SON

仕事帰りに渋谷に寄ったので、そのままユーロスペースへレイトショーを観に。ユーロスペースが移転してから実は初めて行ったのだが、昔あった雰囲気とそれほど変わっていなかった。劇場自体は少し広くなったのかな・・・。

アレクサンドル・ソクーロフ『ファーザー、サン』

シーン当初のあえぎ声と裸で抱き合っている映像から、父子の同性同士の濡れ場かと思い、少々当惑した。ほとんど同性の恋人のように生活する父子。バックに転がるタナトスの感触。唐突につぶやかれる意味深な台詞。
特に気に入っているのは、息子と(元)恋人との会話。金網越しと階上下間などそれぞれ触れられない距離において、理解しあいながらも拒絶しあうの会話は絶妙で、その息遣いに飲まれそうになる。
僕はソクーロフ映画の熱心なファンでもないが、その場にある居た堪れなさには緊張感を感じて不思議な気分になる。遠くで聞こえる晩鐘のような静かながらも凛としてある存在感とでも言おうか。



そういえば、ソクーロフイッセー尾形昭和天皇を演じる『太陽』は今夏に公開されるようだ。日本上映は無理だと思っていのたで、とりあえずめでたい。
上映館はどこになるのだろうか?