英語の企み、仏語の戯れ

『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』 東京大学出版会
斎藤 兆史・野崎 歓(著)

野崎 歓の方は、その訳書(トゥーサン、ソレルスウェルベック)にかなり親しんでいるが、斎藤 兆史の方は全然知りませんでした(これを読んでロッジの『技巧』の訳者の一人だったことに気付いた程度、すいません。これから色々読ませていただきます。)。
実用重視 vs 教養としての語学の話は、本文中でも述べられていたが平行線をたどるもので、議論しても無駄だと思う。例えば、数学でもツールとして扱いを教える場合と、まじめに抽象数学バリバリでやる場合とで、全く異なったことをしなくてはならない。目的であるか手段であるか、それは立場が違うわけだから、相手を批判したところで仕方が無いし益なく不毛である。某教授を英語「初段」と切って捨てるのには、大変笑いましたが。その後に英語の帝国主義を批判しはじめているが、それと英語を究めることについてにの斎藤氏の答えが「それは意識しなくてはいけないのだけど、自分でもよく意識化してみたことがないんですね。」には脱力。対談で口が滑ったのも多分にあるのだろうが、それが英語を教える人間としては要になってくるのでは。ましてやその批判を自分で言い始めたのだから、きちんと明示して欲しい。あと、ヴィントゲンシュタインの言語と思考の話をここで持ってくるのはミスリーディングだと思う。
翻訳と文学の話題は流石に内容豊富で面白い。批評に快楽が無い話や、国によって構造主義一つとっての受容の違いがでる、っていうのは現場の人ながら。また、最終章は「文学が役にたつのか」という表題であるが、「一般社会に」どのように役に立つのかではなく、我々の仕事が「文学を勉強する人間に」どのように役に立つのか、にすり代わっていて潔くてよいかと。彼らのいう文学なんて古式然としていて、現在では一般の人にまったく浸透していない事実を完全に無視しているのが逆に痛快である。